54 海へ……

 激しい戦いが終わり、鯨類史上最大の事件が幕を閉じた後、チェロキーの歌声に応えて集まった大勢のクジラたちは、異種族同士が入り乱れて交流をもち、胸ビレをたたいて健闘を讃え、平和の訪れを喜び合いました。現場にまで来られなかった世界各地の潮吹き仲間も、それぞれの海で近隣のはらからとともに祝賀の宴を開きました。ただ、〈モノ・セティの園〉のあった海域はまだ〈死の精霊〉の危険が残っていたため、クジラたちは当分の間そこを泳入禁止区域≠ノ指定せざるをえませんでした。
 ともに旅をし、死線をくぐり抜けてきた三頭のオスも、この和やかな集いの場でようやく再会することができました。三頭とも身体中に生々しい傷痕を残していましたが、気分はすこぶる爽快でした(もっとも、チェロキーのは本鯨(ほんにん)がちょっと大げさに捉えすぎていたようですが)。
「よくやったな、チェロキー」
「えっ、あれ? ダンナ、ぼくのこと名前で呼んでくれるんですか?」チェロキーが調子が狂ったといわんばかりに聞き返します。
「ああ。お前はもう一頭前(いちにんまえ)の立派なおとなだよ」
 マッコウの偉丈夫にそう褒められ、彼ははにかみながら言いました。「そんなぁ。ぼくなんて結局、オヤジさんを残したままとっぴらかして逃げちゃったのに……」
「いや、お前は自分にできること、なすべきことをちゃんと心得て、それを実行した。たいしたやつだぜ。オスの中のオスといったっていい」
「そうとも。きみのおかげで、わしたちは全員こうして無事に潮を吹いておられるんじゃからな。きみは生命の恩鯨(おんじん)じゃよ、チェロキー」
「アハハ、二頭にそこまで言われると照れちゃうなあ……。ところで、もうすっかりことは片付いたんですかね? あの誘拐犯のシャチたちはどうなったのかな?」
「下っ端の連中はみんな本家〈毛皮派〉にしょっぴかれてったが、まだ片目のボスが見つかってないらしい」
「まあ、あの異相じゃから、無事に隠れおおすというわけにはいくまい。シャチたちは掟破りには厳しいからの」
 とそのとき、三頭のそばに、一頭の堂々たる風格を備えたシャチが静々と泳ぎ来て、ダグラスに向き合うと恭しく一礼しました。
「ダグラス殿、大いなる一族の方。この度のご災難に対し、わがシャチ族一同衷心よりお見舞いとお詫びを申し上げます。本件に我々正規の〈毛皮派〉が一切関与していないということは明白でありますが、一族の威信を著しく貶める事態を許してしまった責任は否定のしようがありません。そこで、〈家長〉間で協議した末、種族の誇りにかけて、あなた方シロナガス族に対し二五年間の捕食モラトリアムを実施することを決定いたしましたので、その旨お知らせいたしに参上仕りました」
「ご厚意に感謝いたします、高貴な一族の方。どうかメタ・セティが、あなた方の種族に常変わらぬお恵みをたまわりますように」
 ダグラスは丁重に礼を述べました。〈毛皮派〉の代表者のオスは、大きな種族にもう一度深々と頭を下げると、威厳のある泳ぎ方で去っていきました。
「よかったじゃないですか、オヤジさん」
「ホッホッ、お釣りが来たよ。じゃがまあ、いつか彼らがモラトリアムを解除できるくらい、わしの一族が復興できるとよいがな……」
「大丈夫ですよ。またオヤジさんたちシロナガス族の心を震わすバスが海に満ちわたる日が、きっと来ますとも」
「ジャンセン」
 彼にも訪問者がやってきました。あの精悍なマッコウのマスターオスです。後ろにはズラリと歯持ちクジラの同志たちが控えていました。
「きみにも功労賞をどうかと思ってね。欲することがあれば何でも遠慮なく言ってくれたまえ。できるだけ希望に添うようにしよう。といっても、メス一〇万頭付のハーレムを進呈するというわけにはいかないがね」
「そうだな……うむ。俺から一つ、諸君に頼みてえことがあるんだが」
 他のクジラたちはいっせいにジャンセンに注目します。緊張してヒーローの次の言葉を待つ一同の顔を、彼はしかつめらしく見回していましたが、急にニヤリと相好を崩して言い放ちました。
「今日から一週間はイカ断ちだ!」
 クジラたちの間からどっと笑いが起こりました。食いしんぼうの太めのクジラがちょっぴりがっかり顔をしたものの、今回のいちばんの殊勲者である小さな種族をねぎらおうというジャンセンの提案を、だれもが快く承諾しました。
「そうでもしてやらにゃ、連中にしたって割が合わねえだろうからな──」
 
 瀕死の重体だったクレアは、驚くほどの早さで回復に向かいました。たぶんジャスティは、いままで生命を奪うことにしか用いてこなかった超常の力を、初めて生命を癒す力としてクレアのために施してくれたのでしょう。しかし、使いきって空っぽになった彼女の生命力を補給するのに果たすところの大きかったのは、なんといっても無事めぐり合えた息子ジョーイと新しい娘メルの存在でした。
 数日の間三頭は、容態がよくなるまで穏やかな波にじっと並んで身を浮かべ、互いが体験してきた冒険の物語、旅の間に知ったこと、考えたことをゆっくり語らって時を過ごしました。広々とした亜熱帯の海は、絆を確かめ合う親子を優しく抱擁しました。
 二頭のこどもはすぐに快活さを取り戻し、近所の〈表〉のミンククジラの子と一緒に遊ぶようになりました。
 その日、ジャンセンがいとまを乞いにやってきました。
 無邪気に戯れ合う仔クジラを、二頭のおとなはじっと温かな目で見守りました。クレアはふと、追いかけっこをする異種族のこどもたちをぼんやりと目で追っているオスマッコウの横顔を見つめました。彼の長い頭の先端にある鼻孔から、かすかにため息が漏れました。
「どうしたの?」
 ふだんの彼らしくもなく、マスター顔向けのみなぎる血気が感じられないジャンセンの様子に、クレアが尋ねました。
「え? いやなに、お前さんとこの坊主みてえにちっこいのが、俺の周りをウロチョロしてやがったらどんなだろうなんて、柄にもねえことを考えちまったのさ……」
「そうよ、ジャンセンも所帯を持ちなさいな! あなただったらきっと迎え入れてくれるポッドがあるはずだわ。家族っていいものよ」ここぞとばかり勧めるクレア。
「家族、か……。だがな、オスってのは孤独なもんよ。俺たちがメスやこどもと一緒にいられるのは求愛の季節の短い期間だけだ。そして、来る日も来る日も傷だらけになってハーレムの防衛に明け暮れ、気がついたらいつの間にか歳を食って、若えのに追ん出されてる。その後は一頭寂しく余生を送るのさ。まあ、それが鯨生(じんせい)ってやつなんだろうがな」
 暖海にほっと一息ついた潮が棚引きます。半生をただ一頭放浪し、海の掟以外のあらゆる束縛を離れて己れの心の赴くままに泳いできたオスの、黒い横顔に漂う孤独の影を、クレアは見ました。
「あら、メスだって同じよ。本当ならあの子たちだって、もうとっくに乳離れしている時期だわ。一所懸命ヒレ()塩にかけて育てても、一年経てばどの子も親元を離れて独り立ちしてしまう。そうやって何頭産んでも産んでもみんな去っていって、やがてこどもを産めなくなって、それでも幼い生命が愛しくて、若い母親にあれこれやかましく口出しするんだけど、それはもう自分の子じゃない。オスだってメスだって結局はみんな孤独。でも──」そこでクレアは口をすぼめて微笑みました。
「だれもが孤独だから、絆ってものがあるんじゃない?」
「まあな」ジャンセンも笑みを返します。
「いつかは自分の子を持ってみるといいわ。そうすれば、こどもがどんなにヒレを焼かせるものか、よくわかるから。カカアを困らせるかね。そして、もしあなたがおじいちゃんになって、ハーレムを追い出されたら、〈豊饒の海〉の私のところへ遊びにいらっしゃいな。そのころには、私もいいおばあちゃんクジラになっているでしょうけどね。フフフ」
「……ま、気が向いたらってとこか。だが、俺はまだ気楽な独身生活を十分に堪能した気がしねえ。ポッドに落ち着くのは先の話さ」
 最後にもう一度ジョーイたちを見やると、ジャンセンは大きないかつい頭を水面に突き出してザンブと水を掻き分け、潜水の態勢に入りました。
「あばよ。元気で威勢のいい、ミンクのねえちゃん」
 ジャンセンは口の端を上げて笑うあの独特の、ニヤリ、というニヒルな笑いを見せると、彼を待つ自由の大海へと潜っていきました。
 
「紹介しよう、クレア」
「まあ……!」
 クレアはダグラスの隣にいる若いクジラを見て、パッと顔を輝かせました。聡明そうで穏やかな目をしたそのシロナガスのオスがだれであるかは、訊くまでもないことでした。
「あなたの若いころを彷彿とさせるわ」
「息子じゃ」
 ダグラスの息子は半身前に進み出ると、両胸ビレを広げてあいさつしました。
「ストークです。クレアさん、ダグラスが……父がいろいろとお世話になりました」
「とんでもない。あなたのお父さんにお世話になったのはこっちのほうよ」
「彼はな、うれしいことに、わしの後を継いでくれるそうじゃ」
「〈歴史編纂者〉におなりになるの?」
 クレアに尋ねられ、ストークはややはにかむように答えました。「〈音響画家〉とどちらになろうか迷っていたんですが、あなたのこと、今回の事件を見聞きして、決心が固まりました。やりがいのある仕事だと思っています。まだまだ駆け出しですがね」
「ダグラス、よかったわね」
 ダグラスは目を細めて二頭の若者を見比べました。
「わしは今回の、五千万年に及ぶわしたちの種族の歴史の中でもかつてない大事件に立ち会った傍証鯨(ぼうしょうにん)となった。すべてのクジラの心が(いつ)になるのを見た。息子にも会えた。おまけに、歴史編纂の仕事まで引き継いでくれるという。みんなクレア、きみのおかげじゃ。わしはもう、このうえ思い残すことは何も……」
 感極まったダグラスは、おいおいと泣きだしてしまいました。
「何を言ってるの、ダグラス。歴史はまだまだ続くのよ。しっかり現役でお仕事を続けてちょうだいな」
「そうですよ、お父さん。ぼくは目下のところ研修生にすぎないんですから、いろいろとあなたに教授してもらわなくては」
 ダグラスは顔を上げてうなずきました。
「そ、そうじゃな、うむ。わしもまだお前に負けてなるものか。今回の事件の波紋がどう広がっていくかも見定めなくてはならぬしな。こうなったら、わしの先生を抜いてあと四〇年生きてやるぞ!」
「その意気よ、ダグラス」
 クレアは改めて、自分の三倍もある大きな老いたクジラを見つめました。常にやさしく彼女を支え、若い彼女が壁にぶつかったときに針路を示してくれたダグラスを、クレアはいつしか自分の祖父のように感じていました。彼女はダグラスの傍らに泳ぎ寄って、胸元にそっと鼻先を押し付けました。老鯨(ろうじん)は胸ビレで、孫娘代わりのミンククジラのストライプの入った背中をやさしくたたきました。
「長生きしてね」
「心配要らんよ。あのシャチたちに血みどろのデスマッチを無理やり観戦させられても、ほれ、このとおり心臓はピンピンしておる。ホッホッ」
 寄り添いながら外洋へと泳ぎ去っていく〈歴史家〉父子の微笑ましい後ろ姿を、クレアは心和む思いで見送りました。
 
 クレアは〈表〉のザトウクジラ族のグループと一緒に屯していたチェロキーとやっと再会を果たしました。彼はいま、二頭のメスに挟まれて幸せそうです。
「ウフフ、両ヒレに花ね」
「これもみんなアネさんのおかげです、ハイ」
「もしかして、嫁の来手のないオスはミンクのエスコートをするに限るってジンクスでもできたんじゃないの?」
「アハハハ、参っちゃうなあ」
 クレアは改まった口調で、いちばん長く苦楽をともにしてきた旅の道連れに礼を述べました。
「チェロキー、あなたにはお礼の言葉も思いつかないわ。あなたがそばにいて私を励ましてくれたおかげで、私は苦しい旅を乗り切ることができた。そして、あなたのおかげでジョーイにも会わせてもらえたわ。本当にありがとう」
「そんな、アネさん。ぼくなんていっつも自分一頭で逃げてばっかしで、何の役にも立ってなかったし。むしろ、ぼくのほうこそアネさんにお礼を言わなきゃ。ぼく、アネさんとの旅の間に自分が少しは成長したように思うんです。相変わらず臆病で弱虫だけど、それも含めて自分が解ったというか、自信を持てた気がするんです」
 そこでチェロキーはモジモジしながら言いました。「実はぼく……アネさんにずっと黙っていたことがあるんです。本当はぼく、〈詩鯨(しじん)〉でも〈歌鯨(ボーカリスト)〉でも何でもないんです……」
「あら、そんなこととっくにわかってたわよ」
 クレアがすました声で言うので、チェロキーはがっかりした顔になりました。
「ええ〜っ!? 異種族にまですぐ見破られちゃうなんて、ぼくってそんなに音痴かなあ」
 クスリと笑みを漏らしたクレアは、真面目な顔に戻って言いました。
「でも、あなたが私とジョーイを助けるために歌ってくれた歌は、お世辞抜きで私がいままでに聞いた中で最高の傑作だったわ」
 両脇にいるメスたちもうなずきます。そこへ同族の一頭がやってきました。
「そうですよ、チェロキー。実はきみにおめでたい報せがあるんです。〈表裏〉双方の〈委員〉に了承を得た結果、ザトウクジラ族歌唱コンテスト審査委員会では、本年度の〈聖歌鯨(ホーリー・シンガー)〉にあなたを選出することになりました」
「えっ!? ぼ、ぼくが聖……!!」
 チェロキーは声もなく両顎をガクガクと震わせています。正直言って、彼は自分が〈聖歌鯨(ホーリー・シンガー)〉と呼ばれる日が来るなどとは夢にも思っていなかったのです。ザトウクジラたちは若き世界一の歌い手をバブルで取り巻いて祝福しました。
「あ、ありがとう、ありがとう!!」
 チェロキーは仲間の称賛の歌声と銀色の泡に包まれながら、メスの前なのもかまわずわんわん泣きだしてしまいました。さんざん恐い目に遭ってもう冒険はこりごりの彼でしたが、これでその苦労を補って余りある素晴らしい一生の思い出ができたことになるでしょう。
「私からもお祝いをあげるわね」
 そう言うと、クレアは彼のそばへつかつかと泳ぎ寄って、コブだらけの鼻先にキスしました。
「わわっ! や、やだなもう、アネさんたらもう、照れちゃうなあもう、まったくもう」
 チェロキーは真赤になって長い胸ビレで顔を覆いました。左右にいたメスがジェラシーを起こして彼をぶちます。一頭のボリュームのあるほうのメスは、弾みをつけてドンと下半身をぶつけたため、体重の軽いチェロキーは吹き飛ばされてしまいました。
「ふぎゃっ!」
「ウッフフ、あなたはきっと尻に敷かれるタイプになるわね」
 新しい〈聖歌鯨(ホーリー・シンガー)〉の誕生を祝賀するお祭り騒ぎがようやく一段落すると、チェロキーはクレアに向かって静かに自分の心に溜めてきたことを打ち明けました。
「アネさん。ぼくね、〈クリエーター〉になろうと思ってるんだ」
 クレアは目を細めてユーモアあふれるこども好きの異種族のオスを見つめ、うなずきました。「あなたなら、きっと立派な〈クリエーター〉になれるわ」
 レックス、あなたの生命がまた一つ、新たな生命と接続したわよ……。
「これからどうするつもり?」
「うん。琉球列島の反対側にあるザマミってとこがぼくらの〈抱擁の海〉の一つになってるんだけど、そこの〈毛なしのアザラシ〉が〈ウォッチング〉を始めたがってるみたいなんだ。〈裏〉の海へ──ぼくたちの〈表〉の海へ帰る前に、ちょっとそこへ寄っていこうと思ってる」
「〈アザラシ〉さんたちと新しい関係が築けるといいわね」
 クレアとチェロキーはにっこりと微笑みました。そして、言葉もなく互いの目を見つめ合いました。振り返ってみれば、二頭は長い旅の中でともに成長しつつも、始めから終わりまでずっと本当の姉弟のような間柄でした。
「それじゃあ、さよなら、アネさん。いや、また会おうね」
「ええ。〈豊饒の海〉で」
 チェロキーはメスたちを両脇に従えながら、うれしそうに泳いでいきます。途中で彼は、じっと見送るクレアを振り返って叫びました。
「アネさん! 〈岩〉に殺られちゃだめだよ!」
「任してちょうだい! 三度もヘマはしないわ!」
 でも、〈裏〉の海でも、〈アザラシ〉さんたちとお友達の関係になれたら、本当はそのほうが素敵なんだけど……。
 チェロキーは長い胸ビレを大きく振ると、すぐ北にある一族の繁殖場をめざしていきました。
 
 最後に残ったクレアは、息子と娘を交互に見て言いました。
「さあ、それでは私たちも行きましょうか」
 二頭の仔クジラを従え、クレアはまっすぐ南の海を指して泳ぎだしました。リリやアンたちの待つ、そしてレックスの思い出の眠る懐かしの〈豊饒の海〉、クジラたちの永遠の楽園へ──

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