昭和二年、(※台湾の)基隆沖で特務艦が転覆沈没した。ドイツのアーマー式潜水機(ドレッカー)、を使用しての救助作業は失敗した。急流のため海底120mまで伝導索を降ろすと沈船から100mも離れてしまい役にたたないのだ。
これを見ていた一松は独自の潜水作業船の開発を決意した。
潜水作業艇は深海での珊瑚の採取や、海底での漁網展帳の確認など多くの用途が見込まれた。
一松は自身の構想を持参し、三菱造船所を訪れたが、経験の無いことを理由に断られたが、潜水艦の設計に必要な材料強度のデーターを貰うことができた。
400m迄潜航可能な潜水作業艇の設計と製図を自らの手で完了した彼は、基隆市入船町の米満鉄工所(ボイラー工場)で約一年掛りでこの潜水艇を建造した。そして、昭和4年の初夏、世界初の潜水作業艇が完成した。
しかし、当時は世界的な不況のさなか、潜水艇の公試にまで手が回らなかった。一松が本格的に仕事を再開したのは昭和7年のことであった。台湾高雄沖での公試の後、多くの改造を重ね昭和3年5月にようやく完成した。横墺南港を基地として訓練を重ね8月には亀山沖で150m-180mでの珊瑚採取に成功した。名実共に世界初の潜水作業艇の完成である。これを一号艇と呼ぶ。
昭和8年11月23日、一号艇を積み込んだ「しどにい丸」は東京の芝浦に到着、12月30日伊豆の伊東港に回航された。
静岡水産試験所伊東分場の三浦定之助分場長が当時の状況を詳細に「潜水の科学」(霞が関書房、1941刊)に記しているので次に之を示す。
一号艇に関する資料は写真とこの記事以外存在しない。
以後、同艇は同試験所で多くの作業に用いられ何回か昭和天皇のご研究のお手伝いをしている。
昭和10年8月3日、二号艇が進水した。