オントン・ジャワ海域での死闘から生還した707は、アルファ・ポイントで「ちはや」とランデブー。応急修理、負傷者の交代、燃料補給を済ませて一路日本へ。篠原重工神戸工場のドックにようやく入渠した。
「艦長、遠軽に直行じゃないのですか。」
「ちょっと寄るところがあってな。南郷君もどうかね。」
「いったいどちらへ。」
「乱泥流の後の海底の様子が気になってな。古気候の先生の話を聞いてみようと思うんだよ」
「その古気候ってなんでしょう。」
「大昔の気候を研究する学問だよ。レッドにも関係することでな。ちなみに女性なんだが。」
「それならぜひ。」
「いやどうもお忙しい時間をお取りいただいて。こちら副長の南郷君です。」
「まあ、海上自衛隊の方が見えられるなんて。私でお役に立てることありますかしら。」
小柄だが涼しげな眼をした阿部彩子プログラムディレクター(注:実在の人物とは無関係です)が2人に椅子を勧めた。
「海底で遭遇した現象について気になったもので。インターネットで調べているうちに、あるサイトで阿部先生がきっと力になってくれるだろうと薦められまして。」
「あのサイトね。地球科学ならなんでもSFネタにしてしまうという。」
「先生もご存知でしたか。」
「あのサイト、時々間違ってるので気を付けてね。でも私は氷床モデリングが専門なのに、どうして海底なんでしょう。」
「先生はレッドという男をご存知ですか。いや学問のうえでのことです。」
「海上テロのレッドね。彼もたしかに氷床モデリングでは面白い仮説を出しているわ。」
「やつの仮説は学会で無視されたと聞いとるんですが。」
「そうね。そういうわけでもないのよ。研究手法の違いと言えばいいかしら。」
「それはやつが気象学者じゃないからという意味ですか。」
「そんなことはないわ。気候変動研究は今では気象学だけじゃなくて計算科学やシステム工学の人とも一緒に研究しているのよ。この研究所でもそうよ。おかげで私も随分コンピュータには強くなったわ。」
「それじゃどういうところが。」
「彼の場合、ゲーデルBってご存知でしょうけど、軍事用の戦略・戦術推論エンジンなのね。
ここにあるES-III(注:Earth Simulator III。架空)だと観測データを処理してシミュレーションするんだけど、彼がゲーデルBを使って行った方法というのは、奇想天外というか、世界中の研究ジャーナルの論文を読ませて、そこから推論させるわけ。
近頃の論文は全て電子化されているので、ジャーナルの会員にさえなれば、自由に読めるのよ。」
「えっ、コンピュータにそんなことができるんですか。」
「南郷君、君が驚くのも無理はない。やつはな、そもそも潜水艦や無人ビークルに搭載できる人工知能を研究しておったんだ。海中じゃ外部から十分な情報を得ることはできんからな。限られた情報の中から状況を推論し、戦術を決定する。それがゲーデルBだ。」
「そういうことね。液体窒素冷却の超伝導素子が実用になったことで、コンパクトだけど超高速の推論・意思決定マシンが開発できたわけね。
だけど、ここのES-IIIとは原理的にも役割でも違うの。今じゃ地球全体を1kmメッシュで計算できるようになったんだけど、それにはスピードだけじゃなくて、膨大なメモリが必要なのよ。
ちょっと分かりにくいかもしれないけれど、共有メモリをいくら大きくしようと思ってもアドレス空間に制限があって、どうしても分散メモリにしなくてないけないの。
分散したメモリの間の通信ロスを最小限にするために、単段クロスバーネットワークという方法で640の計算ノードを結び付けているの。ES-IIIも超伝導化されたけど、640ノードという基本構造は最初のESから変わっていないわ。」
=「スパコン用語」へのショートカット
「気候変動をシミュレーションしようとすると、それだけ大規模なシステムが必要ということですね。」
「そうよ南郷さん。レッドはシミュレーションという方法ではなくて気象学者の知識と経験というデータベースともいえる論文を元に推論し、あの仮説を立てたのよ。センセーショナルな論文が好きなNatureだからアクセプトされたんで、緻密な実証を重んじるScienceなら絶対にアクセプトされることはなかったと思うわ。」
「実はな、南郷君。レッドは海軍の名門の家の出だ。中でもやつの父親は潜水艦学校の教官をしたほどの名潜水艦乗りだ。海中用のエキスパート・システムを開発するにはもってこいというわけなんだ。」
「実を言うと、私たちも彼の研究手法を取り入れようとしているの。彼の推論ロジックはすべて公開されているわけではないけれど、基礎的なもののいくつかがパテント化されていて、私たちも採用しているのよ。」
「そうなんですか!」
「彼はビル・ゲイツほどじゃないけど、結構な金持ちのはずよ。」
「うーん、これでいろんな背景が見えてきた気がするよ・・・。阿部先生、それでやつの仮説自体はどうお考えですか。」
「えーっと、どこまでご存知かしら。氷期と間氷期は知ってるわね。その間に数千年のオーダーで急激な気温上昇があったの。気候ジャンプと呼んでるんだけど。この気温上昇のメカニズム、何がトリガーとなって気候ジャンプが始まるのか、それがずっと謎のままだったの。
彼のモデルでは大気側の気候の異常な揺らぎをトリガーとしています。これが高緯度での降水量の減少を招き、北極海に流入する河川水が大幅に減少する。すると塩分躍層がなくなって海氷ができにくくなる。アイス・キャップのなくなった北極は蓋の外れたお風呂のようになり、地球全体の気温を上昇させ、それに引き続いて永久凍土帯や海底のメタンハイドレートが大気中に放出する。メタンの温室効果はCO2の20倍以上と言われているわ。
これまで大陸氷床の融解とか海洋コンベアベルトの停止とかメタンハイドレートの崩壊というようなアイデアが出されてきたけど、じゃあ、それを引き起こしたのは何、という鶏と卵の問題が残っていたの。
彼がユニークなのは、大気現象の揺らぎそのものがトリガーになりうるとした点よ。どういう意味か分かる? いつ起こってもおかしくない、ということ。特に今のように地球温暖化が進行している時には。」
「うーん、それでですか。過激な化石燃料全面禁止を叫び始めたのは・・・。それに対してほかの科学者はどう考えているんですか。」
「十分ありうることよ。でもどうやって実証するのかが問題なの。北極圏にしろ深海のハイドレートにしろ観測自体が非常に難しいことなの。そのためには私たちのグループは世界中の軍用潜水艦をぜんぶ観測に使うよう何年も前から主張してきたわ。」
「ES-IIIでシミュレーションすることはできないのですか。」
「南郷さん、それなんだけど、大気現象のシミュレーションにはカオスは付きものなの。それでは予測にならないから初期条件を僅かずつ変えて何度もシミュレーションして統計的に処理するの。アンサンブル法というんだけど。
この方法で予測すると温暖化で高緯度の降水量はむしろ増えるの。これだとグリーンランド沖の海洋表層が低塩分化して海洋コンベアベルトは減速する。すると欧州はむしろ寒冷化するのよ。
そういう予測結果が出たからといって、高緯度の旱魃が長期間続くということが絶対にないということにはならないわ。そこがシミュレーションの限界なの。」
「それじゃどうしょうもないじゃないですか。」
「痛いところだけど・・・。そうね。どうしようもないわけでもないのよ。カオスといってもまったくの無秩序じゃないの。ある広がり、アトラクタっていうんだけど、その範囲内でジャンプするのよ。
このグラフを見て。氷期と間氷期のサイクルの中にノコギリの刃のような気候ジャンプがあるでしょ。ジャンプする範囲はだいたいある範囲に収まっているのが分かるかしら。間氷期の中にも、現在より気温の高いモードがあるけど、やっぱりデタラメってわけじゃないでしょ。
それから、いったんトリガーが掛かると、今度は海洋が応答するんだけど、海洋変動は大気みたいなカオスは起こりにくいの。ES-IIIでシミュレーション可能なのよ。
それに比べて大気と接している氷床や海氷は難しいわ。私の専門分野ね。メタンハイドレートも氷みたいなものだし地層やフリーガスが関係しているから難しいわね。」
「そのメタンハイドレートですが、先日、オントンジャワ海台で乱泥流と活発なメタン噴出を目の当たりに見てきたところです。」
「そうなの、それは面白いわね・・・。
そう、観測と連携すれば、キーとなるエリアの観測データから兆候を検出してどう変化するかの早期警報を出せるかもしれない。数十年ぐらいのオーダーで予測できれば十分乗り越えられるはずだわ。
例えば、北極海のメタンハイドレート。フリーガスとの境界をBSR(注:擬似海底反射面)というんだけど、気候変動とか海水準変動でBSRは上下しながら濃縮していくわけ。このBSRの変動の痕跡、ダブルBSRを詳しく調べれば、北極海で何が起きたかの手掛かりになるわ」
「北極海ってそんなに重要なのですか。」
「そうよ。私のような氷床・海氷モデリングの人間にとっては、北極海の下を好きなだけ潜ってられる潜水艦がぜひ欲しいところよ。」
「・・・・・、そうか、そうだったのか・・・・。もしかしたらやつの狙い、本拠地がどこかということも・・・。阿部先生、大変参考になりました。」
「お役に立てたかしら。もしそうなら、ぜひ707を観測に使わせて欲しいわ。ジュニアといったわね。あの潜水艇なんてもってこいだもの。」
「わかりました。ぜひお役に立てるよう、私も努力してみます。」