●Chapter 7 深海へ流れ落ちる大河

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(アリューシャン列島の南方約40kmの海上、「ちはや」とのランデブーポイント)
 インフレータブルボートで「ちはや」に向かう青木技師長ほかフィールドエンジニアを見送る速水艦長。
「次は阿部先生だが遅いな。」

「艦長、至急、士官居住区に来てください。阿部先生が部屋から出てこないんです。」

「なんだと」

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(士官居住区)

 707の艦内で個室といえば艦長、そしてたまに乗艦することがある艦隊司令の部屋しかない。阿部彩子PDにはその艦隊司令室が割り当てられていた。その部屋の扉越しに。
「速水だが、先生、いったいどうしたっていうんです。」

「艦長、ぜひ私を北極海まで乗せていってください。北極海だけじゃなく、ベーリング海も、そしてアリューシャン列島のこの辺りも、とっても重要な調査ポイントがあるんです。」

「だめだ。本艦はこれから戦争に行くんですぞ。人と人が殺し合うんだ。」

「でも707はPKNでの役割は後方支援のはずですわ。」

「戦争に関わる限り、前線も後方支援もない。一年前も前の707で3人の若者が死んだのをお忘れですか。」

「じゃあ、なぜ未成年が3人も乗り組んでいるんです。」

「彼らはジュニアのパイロットとして得がたい能力を持っているから特別に選抜されたんだ。」

「だからといって子供を戦場に送り込むことには変わりないでしょ。」

「うーん、らちがあかんな。よし、扉を壊して引きずり出せ。」

「そんなことしていたら、浮上時間のタイムリミットが過ぎてしまって、USRに発見されてしまうわ。」

「誰だ、そんな入れ知恵をしたのは。さてはカモメだな。」

 艦内放送が、
「艦長、「ちはや」から入電です。至急とのことです。」

「いったいこんな時になんだ。」

・・・・・

 無線室にしばらく閉じこもっていた速水艦長が出てくる。南郷副長が、
「艦長、いったいなんだったんです。」

「うーむ・・・、本艦がPKNから解任された。国会決議があったそうだ。」

「なんですって。」

「後方支援のくせにオントンジャワで戦闘行為を行ったことが国会で論議になっているとは聞いていたが・・・。今回の決議は例の北極海の環境問題らしい。真鍋とかいう偉い先生が国会で演説して、それで本艦はPKNを離脱し、北極海の環境調査を行えとのことだ。」

「PKNを離脱って、じゃあ本艦の身分は」

「暫定的に海洋研究開発機構の所属になった。」

「それって阿部先生の研究所じゃないですか。」

「そうだ。本艦、いや本船は今日から阿部プログラムディレクターの指示に従えとのことだ。オレも今日から艦長じゃなくて船長なんだそうだ」

「そんなバカな・・・。」

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 北太平洋の水深1000mあたりには低温で低塩分の水塊がある。その起源は長らく謎だったが、今では次のように考えられている。
 ベーリング海とオホーツク海ではそれぞれユーコン川とアムール川が流れ込んでいる。どちらの海も大陸棚程度の水深であり、そこでは河川水と海水がよく均一に混合する。冬季に冷却された水隗はそれぞれアリューシャン列島や千島列島を越えて大陸棚斜面を流下し、水深1000mあたりで周りの水隗の密度と釣り合い、そこに滞留する。

 この低温低塩分水の潜り込みには次のような意味がある。ひとつは数十年スケールの気候変動であり、冬の寒暖が海洋の中層に記憶され、数十年というタイムラグで大気にフィードバックされる。

 もうひとつは、大気中の二酸化炭素を海中に送り込む物理ポンプの意味がある。珪藻類などが固定した二酸化炭素はこの低温低塩分水の潜り込みとともに海洋中層に送り込まれるので、海洋表層の酸性度が低く保たれ、大気中の二酸化炭素が海中に溶け込みやすい。

(707の士官室)
 阿部PD(プログラムディレクター)の説明が続く。
「・・・・・、ですから、このアリューシャン列島南側の大陸斜面を流下する低温低塩分水の流速プロファイルをジュニアで計測してもらいます。調査ポイントは谷が最も深く切れ込んだこの辺りです。これまで海上から吊り下げた流速計ではどうしても斜面ぎりぎりのところの流速が計れませんでした。」

 賢次が
「低塩分水というと浮力を失ってしまいませんか。」

「低温で密度的に重いので浮力を失う心配はないわ。だけど流下する速度によっては一気に深い方に運ばれてしまう心配があります。周りの地形が流れを集めやすいところでは特に十分注意して操縦してください。」

 水野機関長が
「楽なミッションじゃねえな。今回の北極海ミッションとどう関係するんで。」

「そうですわね。それを話しておかないと。オントンジャワでジュニアが発見したメタンの噴出、これと関係しています。
 ベーリング海やオホーツク海から潜り込む低塩分水はメタンハイドレートが存在する水深の水温を下げてハイドレートを安定化する役割があります。つまり、この潜り込みが弱まるとハイドレート地層が不安定になって崩壊しやすくなるということです。
 低温低塩分水はベーリング海、それとユーコン川流域の気候変動に敏感に影響されます。
 それに加えてベーリング海ではこのところ毎年コッコリス・ブルーミングという現象が観測されています。コッコリスというのはプランクトンの一種で、珪藻というのは珪酸塩の殻を作るのに対し、コッコリスは炭酸塩の殻を作ります。その時に海中にCO2を放出して海を酸性化し、大気中CO2を吸収しにくくしまうんです。


緑色の部分が1998年4月に衛星の海色センサーSeaWiFSで観測した
コッコリス・ブルーミング(円石藻の異常増殖)

 大気中CO2を深海に送り込む能力が低下しているのではないか、それを直接、ジュニアで観測します。」

 一同よりうーんといううなり声が。
 南郷が、
「よし、ジュニアのルートを確認するぞ。これがES-IIIのシミュレーション結果だ。流下ルートとその流量が海底地形に大きく依存しているのが分かるな。流量が一番多いと思われるこのルートを遡ってもらう。」

 阿部が、
「ご存知のとおりES-IIIは1kmのメッシュでしかシミュレーションできません。それを下回る地形の影響は計算できないのでジュニアに本当の流量を測って欲しいんです。」

 鈴木ソーナー長が
「ちょっと注意したいのは、この低温低塩分水の中では音速が遅くなるので、場合によって死角ができる恐れがあります。ジュニアをロストしないように707もジュニアから離れないよう操船をお願いします。」

 そこで賢次が
「提案していいでしょうか。」

「ああ、もちろんだ。」

「707が真上にいてくれるなら、水中照明をお願いしたいんです。ジュニアのライトは消してHARPカメラ映像による操縦を試みたいんですが。」

 五郎が、
「707で照らし出された海底をHARPカメラで見た方が肉眼よりも遠くまで見えますから。自分自身のライトを付けているとマリンスノーに反射してしまって。僕たち、互いのライトを消してみて気付いたんです。」

 南郷が、
「なるほど、ケンさんには難しい操船を頼むことになるが、やってみよう。その代わり707がジュニアに付いていけなくなるとジュニアは暗闇に突っ込んでしまうことになるが。
 水深600mから開始する。2隻のジュニアは衝突回避のために五郎が海底から2m以内、賢次が5m以上、707は30mの距離を守れ。水深200m毎に役割交代するからな。
 じゃ、質問がなければこれで解散。」

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「航法管制からジュニア1へ、最終チェック開始する。」

「こちら水早。お願いします。」

「オペレーションシステム、オン」

「・・・・ログインしました。」

「発進オートシーケンス、開始」

「開始しました。ステップ1、2、3、4正常です。」

「同期ピンガー時計、キャリブレーション」

「6桁まで一致」

「INS(慣性航法装置)キャリブレーション」

「8桁まで一致」

「船外給電オフした。」

「バッテリー電圧正常です。」

「ボンク内に注水開始する。」

「・・・・均圧しました。」

「ハッチ、オープンする。」

「・・・・正常にオープンしました。」

「最終確認せよ。」

「コンソール表示、オールグリ−ンです。」

「ロボットアーム展張する。・・・ボンク外に出た。ジュニア1、発進せよ。」

「ジュニア1、水早賢次、出ます。」


(by みきぱぱさん、クリックで原寸。動画(Windows Media Player)はこちら

 アリューシャン列島からアリューシャン海溝に続く緩やかな斜面に深く刻まれたいくつもの海底渓谷。相次いで発進したジュニアは、その中でも際立って大規模な渓谷に突入する。その頭上を707が追尾し強力な水中ライトが渓谷を照らし出す。

 キャノピーをHARPスクリーンモードに切り替えた賢次。
「うわーっ、凄いや。まるでサンゴ礁の海に潜ったみたいだ。」

「おい賢次、被写界深度の自動調整もなかなかいい感じだぞ。」

「ああ五郎。これまでのヘッドセットとは格段に違うな。さすが青木さんだ。」

「了解。コースそのままでいいぞ。」

 透明キャノピーの内面が変化したスクリーンには、青く揺らぐ光の中で雪のようにマリンスノーが降り注ぎ、その向こうに雄大な海底渓谷が映し出される。その光景に五郎は魅了される。
 マリンスノーの中に繊毛が七色に変化するクシクラゲや延々と繋がるクダクラゲが現れ、ジュニアの脇を通り過ぎていく。ヘルメットにはパイロットの視線を追いかける機能が仕掛けられており、CCD化されたHARP素子の被写界深度が自動的に調整される。このお陰で通り過ぎるクシクラゲもぼやけることなく映し出される。

「なんて綺麗なんだ。まるでオレたちに何か合図を送っているみたいだ・・・。」
 思わずつぶやく五郎。さらに進むと、シロウリガイの群集が散在している場所に出る。

「阿部先生、シロウリガイが見えます。このあたりが例の冷湧水の出る地震断層ですね。」

「そうよ、そこから先は傾斜がきつくなるはずだわ。流れはどう。」

「まだ弱いですよ。0.7ノットぐらい。あっ、所々にリップルマークが見えますね。」

「強い底層流があった証拠よ。この季節はまだ遅いと思うけど。」

 賢次より、
「上から見るとマリンスノーの流れに強弱のあるのが分かりますよ。五郎、右手の壁に沿って登ってくれ。」

「了解。・・・・・あっ、急に流れが強くなってきたぞ。1.7ノット・・・1.9ノット・・・2.1ノットですね。」

「五郎、オレの方は乱流が強くなってきた。707は大丈夫かな。」

「こちらは大丈夫みたい。賢治のジュニアがちょうど流れの境界に位置するせいでしょう。あまりひどくなったら上に逃げて。」

「大丈夫ですよ。それより五郎の方が。」

 起伏の激しい海底に沿ってジュニアを操る五郎。さすが優れた反射神経が見込まれて選抜されただけのことはある。

「そこを超えれば少し平坦なところに出るはずだわ。」

 まもなく礫岩の多い斜面を抜けて堆積物の覆った海底が現れる。
「あれっ、2時の方向、なんだろう。」

「本当だ。何か立ち上っているみたいだな。」

 方向転換したジュニアは泡の立ち昇る海底に近づく。

「これはオントンジャワの時と同じだぞ。先生、見えますか。」

 音響水中画像伝送の映像を食い入るように見つめる阿部。
「こんな北の海でもメタンの放出があるなんて・・・。」


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 4分の2に増速したジュニアは再び急崖に近付く。その先にはこれまで以上に深く切れ込んだ渓谷が。
「シミュレーションでも一番流速の速い場所よ。気をつけて。」

「現在2.5ノット・・・2.8ノット・・・3.3ノット、まだまだ増えます・・・。3.8ノット・・・、この辺がピークみたいですね。」

「シミュレーションのピーク値より4割増しね。横にトラバースしてくれる。」

「3.2ノット、2.5ノット、1.8ノット・・・急激に減少しますね。」

「思ったとおりだわ。元のコースに戻って水深200mまで進んで。」

「だんだんマリンスノーが増えてきますよ。こりゃ凄い。何ですか?」

「コッコリス・ブルーミングからの降下物かもしれないわね。視界は大丈夫?」

「濁度が増えて視界が悪化しています。斜面に沿って進むのは困難です。」

「必要なデータは取れたわ。観測終了します。ジュニア回収お願いします。」

・・・・・・

 浮上した707。艦橋に上がってきた速水らは周りの海を見て驚きの声をあげる。
「なんだ、この海は」

 彼らの目前にはエメラルド色が白味がかった異様な色の海が広がる。
「これがコッコリス・ブルーミングよ。円石藻が珪藻類を駆逐して大増殖しているの。「白い悪魔」とも言われているわ。
 なぜそういう現象が起きるのか原因は分からないの。たぶん大陸からのダストの供給が減っていることと関係があると言われているけど。」

・・・・・・

(士官室で)
「カモメがジュニアの観測データを解析してくれました。
 低塩分水の潜り込みについてはピーク値は予測値よりも高い値が観測されましたが、分布パターンは逆に狭くなっていて、全体の流量は予測値よりも3割も減っています。
 しかも溶存CO2の濃度が上がっていて、コッコリス・ブルーミングの影響が現れています。」

「CO2濃度が上がるっていうのは、海洋がCO2を吸収してくれているってことでは。」

「CO2が大気から除去されるには有機炭素の形で降下しないといけないんです。溶存CO2の増加は大気からの吸収を妨げます。」

 速水船長が、
「これで何が分かったんだね。」

「気候ジャンプの起こりやすい条件が整いつつあるということです。あとは大気カオスが起こればトリガーが引かれます。
 問題は、大気カオスが起こらなくても人為的にカオスを起こせるということです。この絵を見てください。」
 北極海の断面図が映し出される。

「北極海の水隗は4層構造になっています。一番上は大陸河川から冷たい低塩分水です。二番目はベーリング海からの海水で、これは太平洋の暖かい高塩分水とユーコン川の淡水が混合してやや濃い目の低塩分水です。
 その下が大西洋からの暖かい高塩分水。一番下は海水が凍るときに排出されるブラインという特に塩分の高くて冷たい海水です。
 北極海ではこういう密度差によって上下混合が妨げられています。このおかげで一番上の冷たい低塩分水の層が維持され、海氷ができやすくなっています。逆に言えば、この層が壊れると海氷ができにくくなるということです。」

 阿部PDは一同を見回す。
「この低塩分層が崩れる条件は、ひとつは大陸河川の流量が減ることですが、もうひとつは人為的に起こすことも可能です。つまり北極海で強力な爆発を起こせば・・・。
 おまけにそれで北極海のメタンハイドレートが崩壊すれば、その温室効果で一気に気候ジャンプが起きても不思議じゃありません。
 PKNが使おうとしている新型兵器、これを北極海で使うことは、絶対に許されません!」


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