(707の士官室)
壁のスクリーンには北極海の海底地形が映し出されている。
「そうね。ハイドレートというと普通の海では数百mより深い大陸斜面、この狭い海盆内にあるんだけど、北極海だけはこの広い大陸棚の部分にもあるはずなの。
そもそもハイドレートが発見されたのはシベリアの永久凍土なんです。だから氷期に陸地だった大陸棚にあってもおかしくないんだけど。
海の中では年中零度以上なのと、河川から大量の有機物が流れ込んでいるから、陸上の永久凍土とはまた違ったメカニズムがあるんじゃないかと。」
なるほどという声。
「もともと永久凍土は、北極圏でも氷期にシベリアみたいに降水量の少ない地域で発達しています。氷期に大陸氷床が発達していたカナダやヨーロッパでは氷床が保温効果となって永久凍土がないんです。」
南郷副長が、
「そこでだが、この調査は、北極海で特殊兵器が使われる前に成果を出さなければ意味がない。
アポロノーム1はすでに追い抜いてきたが、それよりグリーンランド海から入ったアポロノーム3が先にUSRの本拠地を見付ける可能性が高い。それに続くアポロノーム2には特殊兵器を積んだコーバック号が搭載されているはずだ。
従って、速力を稼ぐためにラプテス海までは有酸素でディーゼル航行し、ラプテス海でなんとか海氷を割って酸素補給する。これが唯一の選択肢だ。」
一同からざわめきが。
氷が割れなかったらどうするんだ、魚雷を打ちゃいいんだよの声に、南郷が、
「一同静粛に。もし海氷が割れなければ、電気推進に切り替えてレナ川を遡る。今の季節ならまだ大丈夫だそうだ。」
操舵手のケンが、
「もし途中でU-SUBに発見されたら。」
南郷が、
「その点だが、USRの本拠地はその巨大なサイズからいって、北極海盆の中だ。U潜隊もおそらくその周辺を固めているはずだ。
カモメのシミュレーション結果だと、ノボシビクス諸島の南側、大陸棚の沿岸よりを航行すれば、本艦の音も浅い海で反射を繰り返すうちに大部分減衰して発見される可能性は低いと考えている。」
「もし発見されても、本艦は自分を守れないのでは。」
艦長が、
「みんなの心配は分かる。ここはオレから説明しよう。
みんなも承知のとおり、707はPKNを離脱して暫定的に海洋研究開発機構の海洋調査船になった。その結果、みんなの休職出向先も機構に変わっておる。正確にはオレは船長、南郷君はチョフサーだ。
阿部先生がチーフサイエンティストとして本艦の科学ミッションの責任者となる。」
海洋調査船が武器を積んでていいんですかの声に阿部PDが、
「観測船も昔は地層探査のために沢山の爆薬を積んでたのよ。今ではエアガンを使うけれど。」
速水が、
「機構からの指示によると、自衛のための武器使用についてはPKN参加の時と同じとのことだ。USRがこの707に手加減するとは考えられん。オントンジャワのことがあったあとではな。従ってやつらに発見されれば、即、こちらから攻撃するつもりだ。」
阿部PDがうなずいて、
「この船の運航上の責任者はあくまでも艦長よ。呼び名ですが、船長、チョフサーじゃなくこれまでどおり艦長、副長のままとしたいと思います。呼び名で混乱して判断の遅れがあってはいけませんから。」
一同より安堵の声が。
南郷より、
「もしほかに質問がなければ、このほかにも北極海が普通の海と違う点があるので、みんなにもよく理解しておいてもらいたい。鈴木ソーナー長。」
「ハイっ。この前、阿部先生が説明されたように、北極海は4層構造になっている。
上から河川起源の低塩分水、ベーリング海からの太平洋水、その下に大西洋からの高温・高塩分水、そして最下層のブライン(注:海水が凍る際に排出される低温・高塩分水)だ。
音速は、圧力が増えると速くなる。例えていうと、より強いバネほど速く振動すると思えばいい。それから塩分が増えても音速が速くなる。密度が増えるからな。」
ここで一息付く。
「ちょっと間違えやすいのは水温の影響だ。水温が低いほど密度が増えて音速が速くなると思うだろ。ところが答えは逆だ。
水温が下がると分子運動が鈍くなるから振動も遅くなる(注:本当にそういう理屈なのかは知りません)。反対に水温が上がれば分子運動が活発になって音速は増えるってことだな。」
うーんという唸り声が漏れる。
「すると音速はどうなるかというと、結局、上から3層目までは音速が増えて音線は浅い方に曲がる。つまり北極海には死角がないってわけだ。言い換えれば北極海の音はすべて海氷下に集まり、そこで反射しながら遠くまで伝わるということだ。」
一同うなずく。
「ところが唯一例外があって、暖かい大西洋水から冷たいブラインに移るところで音速が減る。つまり音線は深い方に曲がる。
だからここをうまく使えば死角になりうるわけだが、ブライン層は薄い。よほど海底ぎりぎり、たぶんアリューシャン列島の時のように海底地形に大きく依存して流れているかも。」
阿部PDが、
「ちょうど今の季節は海氷が盛んに生成されているので、ブラインが比較的多い時期とは思いますけど。」
千太が、
「北極海に死角がほとんどないということは、逆に言えばこちらからも相手がよく見えるってことですね。」
「そうだ、千太。ただしお前の方が北極海では先輩だからよく分かるだろうが、海氷下での反射が強くて複雑なせいで、残響が多く識別が難しい。氷山の死角もあるしな。」
そこで南郷が引き継ぐ。
「その氷山のことなんだが、よく勘違いするんだが、氷山はもっぱらカナダ沖からグリーンランド周辺に特有のものだ。
ベーリング海峡からシベリア沿岸にかけては氷山がほとんどない。遮るものといっても、せいぜい厚さ3mぐらいのリッジぐらいしかない。
そういう意味ではUSRの本拠地はグリーンランド北方の氷山密集地に隠れている可能性が高いと考えられているそうだ。」
ケンさんが、
「衛星や飛行機では見つからないんですか。」
阿部PDが、
「言い忘れていましたけど、北極海には北極層雲という低層の雲が覆っていることが多いんです。プランクトンが放出する硫化ジメチルが関係しているって説もあるんですが。
そのせいで衛星で可視センサー画像を撮ることが難しいんです。特に今は極夜の季節になってしまったし・・・。」
「副長、こんなにキャビテーションを出して突っ走ってて大丈夫ですかい。」
「まあ気にするな。それよりも、このあたりの海底じゃ、何が沈んでいてもおかしくないからな。」
海底面には氷期に侵食されて刻まれた起伏が延々と続いていた。
「ケンさん、いよいよとなったら、ジュニアに先導させるが。」
「いや、ジュニアにばっかり苦労させるわけにはいきやせん。」
阿部PDと鈴木ソーナー長がディスプレイを覗き込む。船底部の音響素子をパラメトリック発信させることでサブボトムプロファイラー・モードにして海底下の地質構造を描き出している。
「どうですか、先生。」
「礫岩が多くて、それが邪魔しているのよ。やっぱりもっと強い発信源がいるわね。
それよりも溶存酸素の値を見て。本来は北極海じゃ溶存酸素は高いはずなのに、ところどころで大きく落ち込んでいるわ。」
「なぜなんでしょう。動物プランクトンの異常発生ですか。」
「硫化ジメチルが計れればいいんだけど・・・。もしかしたら、メタンが酸化している可能性もあるわね。水温、塩分からみても高温の大西洋水がこんなところにまで入り込んでいるみたいだし。」
「五郎、やっぱりライトを消すと、さっぱり見えないな。」
「ああ。だけど薄そうな気はするな。あたりにリッジはなさそうだし。」
「そうだな、ここなら大丈夫だろう。本艦に連絡しよう。」
南郷が、
「ジュニアから浮上できそうな場所の連絡がありましたが、厚さははっきりしないそうです。」
「そうか、まさか707で海氷を割ることになろうとはな。」
無事、セイルを氷上に突き出した707。さっそく酸素吸蔵セルへの充気が始まる。
(707の指令室)
南郷が、
「セイルプレーンに異常なしです。意外にあっけなかったですね、艦長。」
「ああ。爆破せずに済んでよかった。本艦は基本的には氷海仕様じゃないからな。」
阿部PDが、
「この辺りは1年氷ですから。それに海氷が生成されにくくなっているみたい。カモメがさっそくシミュレーションしてくれたんだけど。」
「そうよ。ベーリング海峡からここまでのデータだと、東向きの流れがいつもより強まっていて、上下混合しやすくなっているの。極渦(注:北極大気の時計回りの循環のこと)が強まっているのね。」
とカモメ。
「さて先生、そろそろ観測計画はまとまりましたかな。」
「ええ、必要なことははっきりしてきたんですが、一つ問題があります。
水温と塩分のデータはUSRがネット上に流したものとだいたい一致しています。たぶん解析したのはレッドの姪のヒルダでしょう。一緒に仕事したことがあるから分かるけど、彼女のデータなら信頼できるわ。
証拠としてどうしても加えたいのは地層内のデータなんですが、ここに来るまでのサブボトム・プロファイラーのデータでは不十分です。」
艦長が、
「例のBSR(注:擬似海底反射。メタンハイドレートとフリーガスの境界と考えられる)は確認できたのかね。」
「そこまで出すには出力不足ですわ。このあたりは氷期に永久凍土が数百m以上発達したはずですから。
氷期が終わって海面が上昇してからは冬のマイナス40度もの寒気に晒されなくはなったけど、夏でも零度近くに保たれているし、しかもその上をレナ川からの堆積物が覆っているわ。
カモメに現在のデータで計算し直してもらったけど、やっぱり海底面からよりも地球内部からの地熱による融解が今でも支配的ね。」
艦長が、
「それは海底下永久凍土が崩壊する心配はないという意味かね。」
「そういうわけじゃないわ。BSRがどこまで上昇しているかによるの。
もともとこの辺りはレナ川からの有機物が氷期の頃から埋没してきたから、メタンに富んでいるはずだわ。なんとかBSRまで届く地震探査をどうしても行わないと。」
「USRに気付かれずには済まないということか。
本艦でエアガンの代わりになるものといえば、爆薬だが、どの程度の規模の爆破が必要なんです。」
「一つ一つの爆破は小規模の方が好都合です。なるべく柔らかい堆積層の下で爆発させたいのですが。ここから大陸棚斜面まで約600kmあります。それを50km間隔で精度よく爆破していく必要があります。」
カモメが測線図を表示する。
「精度よくというと。」
「爆破のタイミングと測位の精度が十分高いということです。受信の方は707のアレイで大丈夫です。ただしできるだけ海底ぎりぎりにお願いします。」
「副長、水雷長を呼んでくれ。で、カモメはどう考える。」
「有線誘導とピンガーが必須ね。だけど魚雷じゃ強力すぎるし12本も使うわけにいかないし。サンダーロックを改造しましょ。」
「簡単に言うなぁ。それでUSRに探知される可能性は。」
「サンダーロックの爆薬を半分に減らして、5km以上後方で爆発させるの。707自身が音を立てなければいいのよ。
静穏モードぎりぎりの10ノットで航行して33時間で終わらせましょ。」
そこに水雷士の坂倉海曹長がやってくる。速水が、
「さっそくだが、サンダーロック12発を有線誘導に改造するのにどれぐらいかかる。ピンガーで測位するんだが。
それと爆薬を減らしてくれ。堆積物の中に十分突っ込んでから爆発させたい。」
「えーっと、光ファイバー・スプールとピンガーはストックだけじゃ足りませんよ。魚雷用のを転用していいんですか。
ああ、それなら大丈夫ですね。1基1時間で12時間ってとこですか。」
「鈴木に手伝わせるから6時間で済ませろ。
それから副長、今すぐジュニアを発進させてルート上の海底地形をマッピングさせろ。ケンさんと最適ルートを検討するんだ。」
「再生してくれ。」
耳をすませる鈴木。海氷のぶつかり合ったり軋んだりする音が賑やかな中、異質な響きがわずかに聞こえる。
「うーん、確かにこれは爆発音かもな。この音圧レベルだと1000kmは離れているかな。カモメにもっと正確に計算してもらおう。」
データを受け取ったカモメ。わずかな間を置いて、
「標準的な魚雷の爆発力だとして、海氷で反射しながら伝播していく間の減衰を計算したら、約2000km、グリーンランドの方向ね。」
鈴木が驚き、
「そんなに遠いのか。海氷とサウンドチャンネルでこんなに違うとは。」
南郷が速水艦長に、
「いよいよ始まったようですね。どうしますか。」
「注意が向こうに集まって、かえって好都合だろう。」
カモメが、
「これでこちらの地震探査が相手に気付かれることはまずないわ。」
「そうだな。しかし特殊兵器が使われる前に結果を出さないと。準備を急がせろ。」