■四国の四季だより

 
1992年春(3月〜5月)
#1:1992年5月29日

 先生、NSO(New Swingin' Orchestra)の皆さん、挨拶が遅れましたが、ようやく転勤後のごたごたも一段落し、この土日にはギターをさわる余裕もできそうです。最後の演奏が”That's warm feeling”ならぬ”雑音腐萎淋”となってしまいましたが、すばらしい音楽環境を支えていただいている先生、そして皆さん、どうもありがとうございました。

 自宅は高松市の中心から8kmほど東にあり、すぐそばの五剣山にケーブルカーで登れば西国霊場第85番の八栗寺があり、眼下に源平合戦の舞台となった壇ノ浦が望めるはずですが、まだ行っていません。
 讃岐うどんは、あったかい白湯の中に長々と横たわるうどんをネギとおろしショウガの入った麺ツユに漬けて食べます。アゴがだるくなるようなコシの強さではなく、柔らかいのにネバリがあるという感じです。
 職場のある高松の港湾合同庁舎からは薄もやの中、島影が数珠つなぎになった瀬戸内特有の風景が一望できます。

 レンタルCD屋が近くにないのが悩みです。とりあえず財を投げ売って発注した98ノートと、音楽ソフトが届くのを待ってメロディー作りを楽しみたいと思っています。


1992年夏
#2:1992年6月14日〜17日

 ようやくノートパソコンの最新鋭機! PC-9801 NS/T が届きました。ハードディスクがまだ届かないので、とりあえず一太郎dash をフロッピーで立ち上げてこの原稿を書きました。

 ベニー・カーターの貴重なテープと豪華パンフレットをどうもありがとうございました。スピードとビートが2桁違う感じで、これを1桁以内に近付けるには、せめて体力的な練習不足のないようにと痛感されますが、今日は夏に備えて網戸を作りながらテープを聞くのが関の山です。

 ところで、このパンフレットの広告の中になんと高松でもジャズフェステバルが存在する記載があり、ジャズフェステバルといえば20年前の大阪以来というジャズ音痴ですが、今度はぜひ探して聞きに行くことにします。

 ようやく自転車で20分ぐらいの所に見つけたレンタルCD屋さんは、新譜を除き1枚310円で7泊8日、15枚まで借りられるという気前のよさで、カウント・ベイシーケニー・バレルエルトン・ジョンを借り、なつかしいウェス・モンゴメリーの倹価盤CDも見付けて買いました。

 カウント・ベーシーは1982年のニューポート・ジャズ・フェステバルのもので、ベースとギター(どうしてあんなベンベンという音がなるのだろう)とドラム(トントンという音だがバスドラにしては音が高い気がする)の3つがまるで一つの音色のように4ビートを心地良くも堂々と打ち鳴らしている(ここでCDプレーヤーのフタが壊れてしまって、フタが開いてしまわないように手で押さえながら片手と唇でワープロを打つことになった。)。
 このようなはっきりしたスタイルは他のバンドでは聞いたことがない。やぼったいと思わずに NSO の2年間を一途にこのスタイルだけに徹していれば、もう少しましになっていたかもしれないと苦い挫折感がわきあがってくる。


#3:1992年6月24日

 98ノートNS/Tに続いてようやくハードディスクが届いた。なんと120Mバイトの ICM 製である。30Mバイトずつ分割してAドライブにプログラム、Bにデータ、Cは MS-DOS Ver.5MS-Windows のテストベッド、Dはデータのバックアップとする。NS/T が80Mバイトまでしか認識しないので、人に助けて貰ってフォーマットする。
 「一太郎dash」のほかデータベースは「」、表計算は「ロータス1-2-3」、エディタは「MIFES」、ファイル操作は「エコロジー」を乗せる。漢字プロセッサは ATOK7 で行こうと思ったが、結局は「桐」では使い勝手が悪く、MTTK2 を入手して2本立てになってしまった。

 RAMディスクに置いていた辞書を自動的に入れ替える方法が分からないので、RAMは拡張メモリに当てることにしてEMSドライバを組み込んだら、一太郎が動かない。苦労した挙げ句、DOS付属のもののかわりにメルコ製EMSドライバに取り替えたら、なにがなんだか分からないがようやく動くようになった。

 漢字変換に不具合が続くので ICM のメニューシステムに頼ることとなったが、いつのまにか COMMAND.COM が IO.SYS、MSDOS.SYS と違う年月日のものに変わってしまっていたので、フロッピーの束の中からと同じ年月日のをなんとか見付け出してとりあえずエラーが出なくなった。
 MIDI端子とケーブルも用意できたので、後はコンピュータミュージックソフトを入手するのみである。

 この98ノートを緩衝材に包んで自転車の荷台に積み込み、40分弱で会社と家の間を往復する。海岸沿い走ると空の広さと自然の美しさが満喫できる。軟弱な足腰では五剣山(ごけんざん)の麓にあるわが家への登り坂が登れず、他の人がスイスイと横を追い抜いていくなか自転車を押していく。

 電車から自転車に変えて時間の余裕ができ、ギターの指慣らしの時間ができる。ヤマハの電子ピアノ「クラビノーバ」に"EASY MONEY"の一節、Dm7−G7−Em7−A7−Dm7−G7−C−A7を入力してからFに切り替え、4ビートで自動繰り返し演奏をさせる。しばらく音探しをしていると、NSO のリズムセクションの皆がそばにいるような気がしてくる。同じパターンの繰り返しなのがつらい。


#4:1992年7月1日

 転勤して1月半が経ち、カラッとした晴天が続くなか、我が家の周りでは雨をあてにせず次々と田植えが進み、あっという間に育って殺風景な風景が新緑の草原に変身する。先週の台風以来、ようやく梅雨らしくなり自転車通勤も跳び跳びとなってしまった。
          * * *
 パソコンは、やむなく覚えたワープロやデータベースより深入りしたくなかったが、とうとう CONFIG.SYS や FEP とやらにも首を突っ込むはめになってしまった。ハードディスク附属のメニューシステムは面倒くさそうだったが、我慢して使ってみると、これは便利。ファイル検索と訂正が同時にできるので、専用のツールも必要なくなってしまった。

 次は、文書作成中にデータベース検索・入力ができるように DOS 5 のタスクスワップを試すことにした。C、Dドライブにインストールしようとすると、やはり NS/T が120Mバイトを認識せず、ICM のユーティリティーを使うことになる。「桐」と「MIFES」のタスクスワップを行うと、見事に切り替わったが、漢字変換の MTTK2 を組み込むと全くできず、各種ハウツー本を読んでも恐ろしくなるような記事しか載っていないので断念。

 その後、電源が切れずリセットも利かない状態が時々発生し、NEC がハードディスク関係の仕様を突然変更してサードパーティーが対応できていないとの話も聞き、不安がよぎる。
                 * * *
 さて、マウスと通信インタフェースも用意して Tool de Music, STUDIO をハードディスクに乗せると、あっけなく起動する。MIDIインターフェースで電子ピアノ「クラビノーバ」につなぐと、これまたあっけなくサンプル曲が鳴り出す。
 ただし、クラビノーバでは全ての楽器が単一の音色で出てくる。テンポをとるためのガイドクリック音までがガン、ガン、ガン、ガンと、でっかいピアノ音で鳴り、最初ギョッとした。せめてドラムは別の音色で鳴ってくれそうなものだが、いずれバンド仲間だったTさんが教えてくれるだろう。
 とりあえずリズムなし音色1種類のみの音楽として、バッハの4声のフーガを手始めにする。パイプオルガンのプログラムナンバーを見つけ出し、音程を入れ、1音ずつの長さと強さを変えていく。音楽らしくするには音の強弱と長短を一音ずつ大きく変化させているものなんだなあと認識を新たにする。


#5:1992年7月11〜20日

 先日は新人歓迎会で、業務終了5時過ぎから庁舎内で1次会。無人警備に移行する6時過ぎに大挙して中心街のスナックに場所を移してカラオケ・バトル開始。「人情松の廊下」など感動の名曲が続いた後、10時過ぎに恒例の釜上げうどんを食べ、11時前にジャズ鑑賞が趣味というK氏に引き連れられてライブハウス”SWING HOUSE”にたどり着く。

 残念ながらライブのない日で、ピアノ、ベース、ドラムが暗がりにひっそりとたたずんでいる。かわりにママさんがビデオで両手で別々の旋律を弾くスタンレー・ジョーダンを見せてくれた。ジョーダンはデビュー当時のギターの癖(平行移動的奏法?)が今ではなくなり、完ぺきなアベイラブル・ノートで色彩豊かだか気品のある演奏をするようになった。以前、バルセロナのギターフェステバルのビデオで聞いたブルースは体のふるえが止まらなくなるような美しさだった。

 生演奏は土曜日にはギターも聞けるとのことでそれを楽しみにして12時前に解散。自転車で夜道を走る。暑くなってカッターシャツを脱いでペダルをこぐ。
* * *
 翌日の夜から猛烈な腹痛と下痢と吐き気に襲われ、一晩悶え苦しんで翌朝病院に言ったら暴飲暴食とカゼによる急性胃腸炎とのこと。2日間の病欠となった。厄年にしては早すぎるが、この前の中耳炎といい体調の大崩れが続く。

 アイスノンでおなかを冷やしながら"Tool de Music"で遊ぶ。このソフトは特に鍵盤からの入力がスグレモノだ。4声のフーガを一声ずつ「録音」してゆき、再生しながら途中弾き損ねた部分を弾きなおしたり、続きを付け足すと、切れ目もなく入力される。
 記号化された楽譜を見ると、リズムのズレ、強弱、音の長さが一音ずつ数字で表示され、意図通りに弾けた部分の数値と比べると打鍵が甘かったり、表現の乏しい音が一目で分かる。まずリズムのずれはタイム・アジャストで一気に矯正するが、スタカート、フレーズの切れ目、アクセントなど繰り返し聞きながら一音ずつパソコン・キーボードで修正していく。
 ようやく発見したペダル効果を付け加えると、なかなかの演奏になる。このフレーズが目立たないなとか、全体にうるさすぎるなと思えばその場で訂正でき、好きなだけ「推敲」できる。あとは電子ピアノのリズムとコンピュータのリズムが連動してくれればいいのだが、どうしても分からない。


#6:1992年7月23日

 当初からパソコンのバッテリー消耗がいやに早いと思っていたら、第1バッテリーが充電後10分でなくなることが分かり、工場修理となった。また、ハードディスクの自動起動を一旦設定すると、その解除ができず、ICM と NEC のユーザー・サポートとやりとりを繰り返し、結局ハードディスクを全面的に初期化するはめになってしまった。

 フロッピー12枚分に圧縮したプログラム等をインストールしなおし、ドライブBを DOSSHELL 用にして再度エディタとデータベースのタスクスワップに挑戦。漢字変換は使い慣れたものをあきらめて DOS 5附属品とし、EMS どころか XMS、UMB、裏VRAM とやらまで絡んできて本屋で立ち読みを繰り返し、EMS/UMBドライバーを DOS 付属のものからメルコ製に変え、レジューム機能を断念してようやく正常にスワップするようになった。

 メモリーは本体附属の1MバイトRAM だけだが、6〜7秒で MIFES と「桐」が切り替わる。NECの漢字変換も意外に使いやすく、念願の文章作成中にデータベースを参照したりデータを追加したりできるようになった。
                *   *   *
 そうこうしているうちに子供は夏休みに入った。3つ目の網戸も完成し、スーパーファミコンのシム・シティーも50万人を達成してマリオ像をもらった。久しぶりにギターを抱えながらCDを聞く。

 借りたCDでオススメなのは、ギターの渡辺香津美"ROMANESQUE"にはNSOナンバーがいっぱい入っている。フルバンドとの競演で、ベースのイントロがなくて寂しい"Stompin' at the Savoy"、大好きな曲"I didn't know about you"、スローの32ビートで艶かしい"Caravan"、NSO版にわりとよく似た"Take the A Train"、そしてギターソロの"In a Sentimental Mood"まで入っている。

 もう一つはビル・エバンス"JAZZHOUSE"の"How My Heart Sings"が絶品(エディ・ゴメス(b)とマーチン・モレル(ds)とのライブ録音)。まず題名がとてもいいでしょう。そしてコード進行がこれまた美しい。

4/4拍子 B7||: Em7 Am7  | Dm7 G7  | CM7 Am  | Bm7-5 E   | Am  E7  | Am  Am6    |
      |  E   G#m7 | AM7 B6  | DM7 AM7 | DM7   AM7 | CM7 GM7 | CM7 GM7/B7 |
6/8拍子    |  Em7 Am7  | Dm7 G7  | CM7 Am  | Bm7-5 E   | Am  E7  | Am  Am6    |
           |  C   Am   | Dm7 E7-9 |4/4拍子 C///B7 :|| 

#7:1992年8月9日

 さぞかし皆さんは冷房の切れたホールで熱演されていることでしょう。さて、連載の先は長いので、今回は地元ネタにします。

 我が家=牟礼(むれ)町にある五剣山は普通の山の頂上からさらに急峻な岩山がそそり立ち、その気になって見れば五本の剣が地中から空に突き出たようにも見えます。その「剣」の根元にある八栗(やくり)寺までケーブルカーで登り、岩山を間近に見上げるとなかなかの迫力があります。
 この五剣山の北側山麓一帯は庵治(あじ)石と呼ばれる花崗岩の産地で、かくして牟礼町は山と石工場と田畑で大部分を占めています。

 牟礼町には四国で1、2位を争ううどん屋と言う人もいる山田屋郷屋敷(ごうやしき)があります。うどんは「釜上げ」や「湯溜め」といい、一度食べると天ぷらうどん、なべやきなど食べる気がなくなってしまいます。

 牟礼町から高松市内に向かう途中に「屋島」という海にせり出したテーブル状の山があり、景色のよさでは高松随一です。ここで例の「釜あげ」を頼んだところ、子供も残したほどまずく、普通のうどんはめんツユだけでは食べれないことが分かり、皆さんに山田屋のうどんをクール宅急便で送ってもうまさが伝わらないので断念した次第です。

 この屋島から五剣山の方を見下ろすと、昔、源平の屋島合戦で那須与一が舟に立てた扇を射落とした「壇ノ浦」が、今では埋め立てで狭い入り江として残っています。源氏に追われた平家が最後に敗れて次々と入水したのは下関の壇ノ浦でした。

 高松市内は一番大きな本屋、古本屋、レコード屋、楽器屋、パソコン屋などが近距離に集まっており、帰宅途中でも簡単に立ち寄れ、地方都市の便利さを痛感します。

 先日、毎年恒例の野外ジャズフェステバルが市内で開かれるということで、ジャズ・ファンのK氏に連れられて聞きに行きました。ところが例年の「ジャズ・イン・タカマツ」という名称が、客を増やすためか「サウンド・イン・・・」に変わっており、ジャズは日野皓正だけで、あとは紅白歌手の鈴木雅之バブルガム・ブラザーズ、そしてCCガールズ風(これがわかる人、あんたは若い!)お色気コーラス「アマゾンズ」が出演していました。
 K氏はみんなジャズバンドだと思ってチケットを買ったそうで、前座の日野皓正(地方では飛行機の時間に間に合わせるため大物ほど早い時間帯に出演するそうです。)の後、若者達が歓声をあげて踊るなか、中年2人が立ちすくんでいたのでした。


#8:1992年8月22日

 だんだんネタに困ってきたが、なんとか続いているのもおおげさだが、ノートパソコンのレジューム機能とタスクスワップ機能に負うところが大きい。NS/T のレジューム機能は先代よりもかなり改良されたようで、パソコンおたくのF部長がくれた怪しげなメモリ拡張ソフトも組み込んだ DOSSHELL上 でも問題なく電源OFF/ONでき、保存・終了→ドライブ選択・システム起動・ソフト選択・文書呼出・・・などの煩わしい手間が省けてしまう。

 一方、まだ問題多しと言われる DOSSHELL のタスクスワップも、日本語プロセッサを人気上昇中のWX-II+にして以来、グラフィックが変になるのを我慢すれば「一太郎」でも「桐」でも「Tool de MUSIC」でも機能的になんの問題もなくスワップできるようになった。

 おかげで、前の職場でパソコン2台必要だったのが好きなだけ自分の机でできるようになり、また、家でもちょっとした合間にフタを開ければ即書き込める。仕事と音楽の両立に苦労しておられるNSOの皆さんも原稿書きの余裕ができるのでは・・。ということでまた音楽ネタ以外で時間稼ぎしてしまった。
*   *   *
 さて、屋島はかつて本物の島だったが、遠浅を利用した塩田と干拓で讃岐平野と陸続きとなり、その境界が相引川として残っている。川と言っても相引川の東端は例の壇の浦から始まり、やがて春日川と合流してまた海に戻る。そこから港湾合同庁舎までの海岸沿いの道路わきにはカンナ?が延々とあざやかに咲き誇っている。
 7月中頃にはとうとうしおれ始め、もう終わりだと思っていたら、渇水で給水制限に入った翌日に本格的な雨が降り、また生まれ変わったようによみがえった。

 その給水制限が始まった日に、牟礼町の中学校で「おいでまい祭り」というのがあり、なにをやっているのかと夕食後家族と出かけようとすると、遠くでカミナリがゴロゴロ鳴り始める。どうせ雨は降らないだろうと思ったが、田んぼの間の道じゃカミナリにやられたらどうするのと女房が嫌がる。お祭りでいったい何をやるのかと娘に聞いたら勉強机の引出しからプリントを出してきた。
 そこには「8時10分〜ジャズ・ビッグバンド・コンサート」と書いてある。

 とうとう雨が激しく降りだしたが、家族が止めるのを聞かずに自転車に乗り、会場までの夜道を急ぐ。

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