(初出:2008/4/27)
クジラの科学は生物学? 資源学?
──日本の鯨類学の牙城が抱える悩み──
今月('08/4)に入って、日本鯨類研究所のHP上に水産資源管理談話会のコーナーが開設されました。これは鯨研併設の研究機関である水産資源管理センターが主催するものです。名前だけ一見すると、同センターはクジラとは直接関係のない水産系の外郭団体のように見受けられます。フィリピンにある第三世界の漁業や開発の問題に取り組むNPO、国際水産資源管理センター(ICLARM)とも非常に紛らわしいのですが・・。HPの記載によれば、水産関係の研究者などを中心に登録会員は300人ほど、主な活動内容は毎年数回勉強会や講演を開き、会報を発行すること。クジラのクの字も出てこない組織を鯨研がかけもちで運営する背景には、一体何が隠されているのでしょうか?
いま、世界の権威ある科学誌で、鯨研発の論文が掲載を拒否されています。日本の鯨類学は、科学の分野として三流の扱いを受けてしまっているのです。研究者にとってはまさに非常事態、屈辱以外の何物でもないでしょう。いまや彼らの発表の場は、「鯨研通信」のような内輪向けの"同人誌"しかないありさま。実際のところ、現行の致死的研究/調査捕鯨のスタイルを何年続けようと、生物学的に目覚しい有意義な発見はまったく期待できません。
さらに、IDCR(国際鯨類探査十ヵ年計画)の3周目では、日本の捕鯨推進派にとって予想を大幅に裏切る非常に少ない目視数しか得ることができませんでした。このため、水産庁の担当者も会見で「氷縁に集まってるから本当は少なくないハズなんだ〜(--;」と悔しまぎれの言い訳に終始する始末。ことあるごとに「ミンククジラは76万頭!」と吠えてきたもともと薄弱な根拠が、ここへきてガラガラと音を立てて崩れ去ってしまったのです。
以前から指摘されていたことですが、南極海のクロミンククジラについては、分布パターンに非常に大きな性差・年齢差があります。また、海況による違いも生じてきます。浮氷群や大陸氷縁からの距離によって群れ・個体の数に偏りがあり、パックアイスのサイズ、密度(混み具合)などの要素が有意なパラメータとして働き、しかも性差や年齢差がここにも絡んでくる──となると、現在目視に使われている発見率の補正計算式(素人には十分煩雑ですが・・)はもう役に立ちません。検証可能な実測値がないので、新たに式を作るのも至難の業です。そのうえ、夏季の索餌期間中の移動もランダムではありえず、そこにも個体のタイプによる傾向の違いが必ずあることでしょう。もはや有用な総個体数を算出することなど不可能となってしまったのです。この点は、IWC科学委でも認識されているはずです。
ランダムサンプリングのランダム性が"採集"作業でもあてにならないということは、すなわちポピュレーションの推移を調べるうえで、致死的調査のデータが無用の長物になってしまうことを意味します。となると、継続的モニタリングと称して年間数百頭〜千頭に及ぶ捕殺を維持する必然性もなくなってしまいます。今期を含む近年の調査報告では、雌雄の捕獲数がほぼ同数で、分布に偏りがある中では返って不自然な、あたかも"作られた数字"であるかのような印象がありました。また、ナガスクジラについてはもともと計画数が10頭どまりで、今期はゼロでしたが、母船での解体作業に支障のないサイズのものを選択的に捕獲していた疑いが持たれています(JANJAN記事参照)。まあ、そもそもナガスを捕獲対象に含めたのは、文化人か政治家の中にいる"尾の身マニア"から「寄付してやるから食わせろ」と裏で頼まれ鯨研側が配慮しただけではないかと、筆者としては勘ぐっているのですが・・。クロミンクについても、データのランダム性を追究する、あるいは厳密に守る意義が薄れてくれば、本来の商業捕鯨事業者としての要求が強まってくるのも自然の流れでしょう。鯨肉歩留の低い未成熟個体なんて捕りたくもないのが本音でしょうから・・。
IWCで商業捕鯨のモラトリアムが決議・施行され、日本政府はどうにかして鯨肉市場を存続させようと、国際捕鯨条約の抜け穴を活用して調査の名を借り数百頭レベルの捕獲を続けるという"裏技"を編み出しました。こうして致死的研究としかつめらしく銘打ったものの、規模が縮小しただけで実態は何も変わらない擬似商業捕鯨が20年間にわたって続けられてきたのです。そして、成り立ちを考えれば当然の帰結でしたが、科学的アプローチの一つとして捉えたとき、年を重ね、規模を拡大する毎に、調査捕鯨の信用性、確実性、有用性はいずれも著しく低下していったのです。
仮にも科学研究を旗印に掲げる機関である鯨研としては、科学としてのステータスがこれ以上下がることは避けたいところでしょう。さりとて、調査活動のメインが"捕鯨"であり続ける限り、世界の生物学界が受け入れてくれる余地はなさそうです。ならばいっそのこと、生物学の一部門としての認知はこの際あきらめ、「水産資源学としての鯨類学」を売り込むことで権威性を高め、復権を果たせないか……。鯨研が別名を用い、クジラと切り離されたところで"資源学の殿堂"をこしらえた裏には、そんな思惑も読み取れます。いくら看板をかけ替えたって、サイトも番地も同一で、水産庁が音頭をとって同じメンバーが運営してるんじゃ、つるんでいることは誰が見たってバレバレですが・・。
実際には、一般市民やマスコミの間では、「クジラの科学といえば生物学」というイメージがあります。一方で、資源学については名前すら耳にしたことがない方も多いでしょう。調査捕鯨も「当然"生物学の調査"をやっているのに違いない」と思っているわけです。しかし、IWCにも科学雑誌の編集委員にも「たいした内容じゃない」と調査捕鯨の科学的意義を否定される中、生物学としては海外でまともな扱いを受けていないことが、いずれ国内でも知れ渡ってしまうのは時間の問題です。その前に、資源学を生物学とは異なる歴とした科学の1ジャンルとして確立させ、捕鯨を支える納税者にも認めさせないと……。現段階では関係者の交流や情報交換にとどまっていますが、センターや談話会の活動にはそうした動機も含まれているでしょう。
確かに、もともと鯨研所属の科学者が中心となった日本の鯨類学は、動物学や植物学、もしくは生態学や行動学、進化系統学などのいわゆる生物学とは、近いようでいてまったく間口を異にする学問です。その研究の目的・目標は、クジラの適切で持続的な管理に必要な知識や法則を明らかにし、捕鯨会社に提供することです。性格としては、まさに農学や水産学の1分野に他なりません。
しかしそれでもなお、鯨類資源学と商用魚を中心にした漁業資源学とは、同じ水産資源学として簡単に一括りにしてしまえるものではありません。両者の間で応用が利くと本気で考えている研究者だって、実際にはいないでしょう。日本の鯨類学者の中には、「ミンククジラは海のゴキブリ」などという非科学的な言葉を平気で使う方もおられますが、クジラがゴキブリならほとんどの魚が"海の大腸菌"のレベルになってしまいます。。繁殖は最短でも年に1頭、性成熟までこれも最低10年近くかかる海棲哺乳類のクジラと、年数百から数百万という卵を産み、長くても数年で成熟する魚とでは決定的な差があります。オキアミを食べるタイプのクジラは二次捕食者どまりではありますが、繁殖・捕食・社会形態から考えてもK種タイプの明らかな高次捕食者です。汚染物質の蓄積濃度の高さもその証拠といえます。生態系における位置付けも、個体数の変動パターンも、魚とはまったく異なります。両者を「同じ俎板の上でさばこう」というのが土台無理な相談なのです。そうでなかったら、南氷洋捕鯨史はここまで悲惨な道をたどりはしなかったでしょう。
もっとも、日本の水産業におけるこれまでの資源管理も、蓋を開けてみれば到底誉められたものではありません。スケトウダラなどの底魚にしろマイワシなどの浮魚にしろ、現行の漁獲量管理(TAC)制度さえうまく機能しておらず、それぞれの魚種の研究者の間では不信と批判が噴出しているのが実情です(インターネットを検索するだけでもたくさん引っかかるので、興味のある方は調べてみてください。当然ながら、皆さん捕鯨に関するスタンスとは無関係です)。
資源管理の成否は、対象魚種の性質・生態の違いというより、むしろ漁業者の側にサステイナビリティの必要性を理解し科学者の助言を受け入れる自己規制力があるかどうかにかかっています。秋田のハタハタのケースのように、数年間のモラトリアムさえ我慢できるモラルを備えていてこそ、初めてうまくいくものです。しかも、漁業の当事者だけではどうにもならない状況もあります。近隣や異種漁協間の軋轢、密漁、輸入品の台頭による圧迫、小売・消費者の無理な要求、不明な部分も多い魚種交代のサイクル、海流の変化やエルニーニョ、さらに地球温暖化の影響なども加わってきて、到底一筋縄ではいきません。そして、現場で働いている漁業者や研究者にも、そうした限界を十二分に理解している方々がおられます。それ故に、現実を見ない水産行政の無策に対する失望と不満の声も大きいのです(こちらも参照)。
翻ってみると、鯨類資源学は失敗の連続で成功例がありません。実績がありません。捕鯨産業をコントロールする能力を発揮した試しがないのです。そして、今後もその見込みがあるとは、筆者にはまったく思えません。なぜといって、たった1年すらモラトリアムを厳守できず、自らの過去を一切振り返ることなく、国民に対して資源管理の困難さを説明する責任を放棄し、あまりにも現実離れした楽観論ばかりを振りまいているからです。業界にべったり寄り添い、鯨肉の売上に依存しておきながら、今後商業捕鯨が再開されたとてまともに監督できるはずなどないことは、誰の目にも明らかです。C・W・ニコル氏の比喩を借りるなら、親猫(共同船舶)に魚の番ができるかどうか、仔猫(鯨研)に見張らせるようなものです。そのような鯨研流資源学を水産資源学の一部門、というより代表格として世界に向けて発信することは、日本の漁業資源管理が"なってない"ことをアピールするも同然です。管理能力の欠如によって、複数の野生動物種を次々と絶滅危惧種へと追いやり、未だに十分な回復が見られないという厳然たる事実がある以上、日本の鯨類学はむしろ水産資源学にとって最悪の問題児であり、汚点でしかありません。
「うちらがやってるのは生物学じゃなくて資源学ですから、別にネイチャーやサイエンスが載せてくれなくたって、科学として劣っているわけじゃないんですよ──」
水産学周辺の有識者を担ぎ出し、そんなふうに資源学としての体裁を繕ってPRをしたところで、実態が何も変わらない以上、日本の調査捕鯨の科学性に対する評価も変わりはしません。ジャンルを移し変えても、"お山の大将"が別のお山に移っただけ。世界の中で完全に孤立した"鯨髭の塔"に閉じこもるのをやめないことには、日本の鯨類学はいつまで経っても一流の科学とはみなされないでしょう。
国内各地でホエール・ウォッチングが興隆し、野生動物としてのクジラに対する市民の関心が高まる中、鯨類学の分野に進みたいという若者も増えてきています。しかし、残念ながら日本には、「欧米と同じように野生動物としてのクジラを純粋に研究したい」「フィールドで生きたクジラを観察し、まだまだ未知の部分が数多く残されている彼らの生態に迫りたい」という志を持った人材を受け入れる受け皿がまったく存在しません。捕鯨業界への忠誠を誓わないことには、日本で鯨類学者として食べていくことは不可能に近いのです。日本近海に生息する鯨種の多くで、生物学的な観点からの研究が海外に比べ大きく立ち遅れているというのに(こちらも参照)。
これもまた、捕鯨推進政策が招いた、日本における生物学の発展と国際貢献の足を引っ張るあまりにも大きな不利益といえるでしょう──。
《参考文献》
JanJanNews 調査捕鯨「減産」は妨害活動のせいなのか?
「捕鯨ナショナリズム煽る農水省の罪」(『AERA』'8/4/7)