■四国の四季だより

 
1993年夏

#28:1993年7月9日

 "Tool de Music"(TM)でテンポその他を細かく変える方法が分かり、音源でリズムパートも出るようになって一応、楽器並みに使えそうになってきた。コンピュータミュージック雑誌などに付いている曲データは当初、再生だけのフリーウェアで聞くだけしかできなかったが、その後各種コンバータが揃ってTM上でいじれるようになった。

 そうして茶の間でずっとヘッドホンを付けて遊んでいると、一人遊びばっかりしていると女房にすねられ、それじゃあ、とCDラジカセのミキシングマイクにつなぐと歪みは大きいが一応音が出る。しかしそれでは女房の大事な徳永英明のCDが聞けなくなってしまう。その後、楽器屋(「the楽器屋」という名のギター専門店なんです)でモニター(アンプ付きスピーカ)が9,000円で安売りしているのを見つけて取りあえず1個だけ買った。

 パソコン、音源、モニター、コードその他がショルダーバックに収まってしまい、これでも以前シャープのミニ書院を担いでたときよりも軽い。この三十数万円分の財産を自転車の荷台に積み込んで土日は家で、その他は会社の昼休みに楽しむという日々である。

 先日の野良犬轢き逃げ(轢かれた犬が逃げていった)事件以来、自転車通勤には神経を使っている。実はそれ以前に急に車道から歩道に入ってきた自転車と衝突し、愛車に亀裂が入って中古と買い替えた事件があった。特に荷台に全財産を積んでいる時は慎重に運転しています。

 その後もヒヤッとするのは、このところツバメが軒先に作った巣のヒナに餌を運ぶため、道路に沿ってトマホークさながら低空飛行しており、自転車に乗っているとちょうど頭上スレスレを高速ですれ違う。ツバメの視力と運動性能がいいかどうか知らないが、もしぶつかって親鳥が怪我しても代わりに餌を運ぶことはできない。

 といった今日この頃だったが、先月、自転車に乗っていた女房が反対車線にオーバーランした自動車に後ろからはねられ、首のねんざその他で入院した。それから1ヶ月経ったが治癒にはまだまだ時間が掛かりそうである。自賠責なのでバス・トイレ付きの個室で例の徳永さんのCDを聞いている。

 前々から女房が予約していたそのコンサートが入院3週間目にあり、タクシーで連れて行くこととなった。外泊といつわってである。周りが皆立ち上がって踊りながら聞いているので、よせばいいのに頑張って立ちっぱなしだったそうである。我が妻ながらその情熱に敬意を表したい。


1993年秋

#29:1993年9月2日

 その後も女房の吐き気と微熱が続き、結局、入院が2ヶ月以上にわたり、退院後2週間ぐらいでようやく食事が作れるようになった。その間の家事代行も大変だったが、家政婦費用の立て替えもしようとしない加害者(というか自動車保険会社)にもうんざりした。

 当然、ギターもコンピュータ・ミュージックもSWJOを聴きに行くのも全てお休み。おまけにとんでもない長雨にたたられ、自転車にカビが生えそうなぐらい散々な夏だった。家事のためほとんど飲みに行けなくなったが、ストレス蓄積のため、家で晩酌、休肝日はなくなってしまった。

 「四国だより」もとうとう2ヶ月近く空いてしまった。ようやく心のゆとりがでてきて、ボチボチ再開しようかというところである。
 タマに覗きに行っているギター専門店のThe楽器屋で、ジョー・パスによるブルースの教則ビデオを見つけ、久々に血が騒ぐ。うちの子どもたちはジョー・パスを見て「スーパーマリオおじさんだ」と喜ぶ。コード進行が中心だが、単純なブルースでもこれだけ色彩豊かにコードを変化させられるものかとゾクゾクした。教則ビデオとはいえ、痺れさせてくれました。

 片割れだったモニタ・スピーカも両方揃った。が、音源は当分、子供の電子ピアノ専用である。というのはパソコンを仕事と趣味の両方で使うと、目への負担が大きい。職場で窓の外の景色が液晶画面に映り込んで疲れ目がひどかったので、強引に机の向きを変えた。眼鏡も左右の視力の差が大きかったので、レンズを変えたりして少しマシになった。

 音楽については退化の一歩をたどるのみであり、料理のレパートリーだけが増えていく。炒め物とルーを使う料理中心だったのが、女房の胃袋に合わせるため、煮物、酢の物、おひたしと和食中心に変わった。音楽は遠くなりにけりである。

 "Boss Guitar"というウェス・モンゴメリーのアルバムから、"カンディアン・サンセット"という曲の伴奏部分を記憶にたどりながら入力してみる。オルガンとドラムとギターだけ(ベースはオルガンのフット・ペダル)というただでさえシンプルな構成なのに、こんなのでいいのかと思うぐらい音が少ないが、ちゃんと決まっている。そのウェス・モンゴメリーは39才だったか死んでしまった。長生きしていればどれほど名演奏を残してくれたろうか、なぜ後半イージーリスニングに流れてしまったのだろうか。

 一方、ジョー・パスは麻薬に溺れて療養中にギターに開眼したという話で、ジャズを始めたのはある程度年を食ってからのようである。いったい何があったのだろう。


#30:1993年10月15日

 ウェス・モンゴメリーが死んだのは43才でした。前回のは間違いです。その年、1968年は私が中二でギターを始めた頃だった。そういえばウェスの"ウィンディー"だったかオクターブ奏法で<ウィズ・ストリングス>ものがよくラジオで鳴っていた。今思えば、あれは追悼特集だったのか。25年=四半世紀も経ってその曲が突然思い出せたのも不思議なものだ。

 その頃はまだオクターブ奏法で有名なのを知らず、マネているうちに「あっ、これはオクターブで弾いていたのか」と気付いたものである。まだツーフィンガーピッキング12弦ギターに憧れていた頃で、それから数年経ってジャズにも惹かれてウェスのアルバムを集めだした頃には4枚しかレコード店に残っていなかった。

 その中の"Full House"と"インクレディブルギター"が録音されたのは34才以降のリバーサイド時代のもので、アルバムの解説には「荒武者」とか「エモーショナルな」とか「狂気の如くスイングし」と表現されている。正直言うと、その頃はデタラメに弾いていると思った曲もあった。

 39才の頃から<ウィズ・ストリングス>又は<ウィズ・オーケストラ>物を手掛けるようになる。アルバム"A Day in a Life"は買って一,二度しか聞く気になれなかった。コマーシャリズムというのか、なんといってもあんな頃ですからね。ウェスも幸せになる権利はある。

 さて、その前年に録音されたアルバムが"Boss Guitar"である。オルガン:メル・ライン、ドラム:ジミー・コッブの3人で録音したもの。最初に買ったので、いわゆる「刷り込み現象」で良く聞こえるのか、ギターの音色がこれだけきれいなのはその後も聞いたことがない。

 アドリブとは思えないメロディックな、それでいてスリリングな演奏で、それを極めてシンプルなバックが支えている。「珠玉の」というのがピッタリで、何度再演してもこれと寸分違わないアドリブしか考えられない気がする。どの曲も軽いタッチでいとも簡単に弾いているように見えるが、実際にコピーしてみると、速い部分は信じられないほど速いのである。

 例えば"For Heven's Sake"という曲は「後生だから」という名訳が付いているが、ウェスのアドリブの後のメル・ラインのCodaなど棺桶に足を半分突っ込んだような演奏というか、本当に音が少ない。それでいて強い緊迫感を感じるのは「刷り込み現象」のせいか。


1993年冬
#31:1993年12月7日

 女房の頚椎捻挫その他も大分具合が良くなってきたが、もう一方、長年煩ってきた骨盤内癒着の痛みがひどくなったため、先月、腹腔鏡手術を受けた。散々な一年もこれで打ち止め。あとは良くなる以外のことは起こり得ないだろう。
 このお陰で、本来ならこの10月頃にインドネシアあたりに赴任しそうだったが、来年4〜5月頃まで延命し、かつ国内での転勤となりそうだ。

 前号以来の出来事を辿ると、今年初めての木枯しが吹き荒れた10月の終わりに東四国国体(秋季)が開かれた。徳島県と香川県の共同主催で、競技場分散方式のため我が町、牟礼町でもフェンシングがあった。地方にいると、国体で天皇陛下や皇太子さんやその弟夫妻が来ると町がきれいになるのでありがたい。大阪や東京に済んでいた頃には思いもよらなかったことである。

 1票の格差が言われるが、地方にいると人口じゃなくて面積に比例させて当然と思う。石工場と田畑中心の我が町は大企業もなく、大口納税者といえばうどん屋とセシールの社長ぐらいのため公共施設が乏しい。町民プールは露天。図書館も市民からの寄贈が中心。皮膚科、耳鼻科、産婦人科、ビデオ/CDレンタルも隣町まで行かなければならない。

 こんな町だが、国体のおかげかどうか、最近、大型日用品店、24時間ストア、中古ファミコンショップ、耳鼻科が相次いで開店した。客不足で潰れないよう祈るばかりである。だが、店が少なく品数も乏しいなりの対策があって、生協などのカタログ販売でたいていのものは手にはいる。マイホームを考えると、絶対こっちの方がいい。早く出世して本社をこちらに移転させることにしよう。

 11月には香川芸術フェステバルがあり、10日のジャズ部門ではSWJOに加えて、とうとう高校生のビッグバンド、Swingin' Wonderland Junior Jazz Orchestra まで誕生した。東京砂漠ではオアシスであるNSOまで辿り付く前に力尽きる企業戦士が多いというのに、なんという格差だ。

 ゲストはギターの滝野 聡さんだった。日本テレビ系「オシャレ30・30」で阿川泰子の伴奏とアレンジをしている人だそうである。アコースティックじゃないエレキギターがビッグバンドとよくマッチすることが分かった。ささやんのギブソンの伴奏は今回もあまり聞こえなかった。


#32:1994年1月10日〜3月8日

 明けましておめでとうございます(これを書き始めた時は本当にその頃だったんだ)。
 12月30日に「ものもらい」が気になったが、直るだろうと思っていたら医院が年末休業に入った31日(マーフィーの法則ですな)に痛みが強まった。薬局で結膜炎用目薬を買って差していたら、その夜、晦日そばを食った後の深夜に激しい胃痛に襲われた。
 救急車を呼ぼうかと思うぐらい苦しんだ末、痛み止めの座薬がなんとか利いてくれた。その後「おせち」や酒はおろか10日以上まともに食事できなかった。

 ものもらいは、眼科の当番医は1月3日からということで、3晩我慢したら実は結膜結石で黒目が傷だらけになっており、角膜炎も起こしているとのこと。
 波乱の幕開けとなったところ、3月に名古屋転勤の打診があった。
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うーん、まあ、こんなところか。
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 インドネシア行きは断ったことでもあり、OKすることにし、これでもっぱら隔月発行となってしまった「四国だより」が「名古屋だより」として長期連載続行と相成りました。今度は「きしめん」で、よほどうどんに縁があるらしい。せいぜい夫婦共々ゆとりある生活をエンジョイするようにします。

 先日(1月18日の東京出張のこと)は計らずしもNSOでギターを弾いてしまった。NSO在籍時は音量調整とリズムのずれで苦しみ、今度弾くならマイクで集音してヘッドホンで聞きながらにしようと決意していたのですが・・・。H君が客席で聞いてみたいと言い、その気持ちが分かるので弾いたけれども、うかつだったのは”雑音腐萎淋”や”煽恥免樽無有怒”。また罪を重ねてしまったがあとの祭り。

 香川のアマチュアビッグバンドSWJOのギター「ささやん」との付き合いも残り1ヶ月となってしまった。カウントベイシーのように、フレディーグリーンのギターの泥臭い音が目立つくせに心地良いのは他に例がない。ところが、ささやんは生っぽい音になるようにアンプを抑えてるので、客席からはほとんど聞こえないわけです。

 「ピッキングが弱いんじゃないの」と前からささやんに文句を言っていた手前、自分自身はみっともなくて弾けないとは言っておれなくなった。

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